嘉納治五郎 とは Jigoro.Kano
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 柔道畳復元プロジェクト 女子部 初期 柔道畳復元を再開しました。

2020 Tokyo オリンピック 祝 
  2009年より柔道畳復元プロジェクトは非営利全国組織の団体へなりました。最新情報 サイトはこちら。入口柔道畳復元 嘉納治五郎
今はなくなってしまった嘉納治五郎師範が研究に継ぐ研究を行っていた伝統柔道畳を復元しています。
農耕民族、日本民族のお米作りからおお麻糸作りなど取り組む「神聖な柔道畳」

嘉納治五郎師範が武士道たる一本技の精神を込めて研究し尽くした柔道の畳を今一度、皆様へ。
日本の明日を思う柔道創設時代に弟子達や支える人たちによって作られていました。それは決してなくしてはならない親と子を結ぶ「絆」です。

   長野市立博物館 おおいなる信州麻展 嘉納柔道畳展示  終了 

   NHKテレビ 歴史秘話ヒストリー「嘉納治五郎」 嘉納柔道畳復元が登場!9月23日PM10時より こちら


 財団法人 日本武道館 機関紙 「武道」7月500回記念
 髄筆 「嘉納柔道と柔道畳復元」 執筆掲載!


              日本武道館 武道 日本武道館で購入

嘉納治五郎 写真

1860年12月9日(万延元年10月28日) - 1938年(昭和13年)5月4日)

摂津国御影村(現兵庫県神戸市東灘区御影町)-氷川丸船内(国際オリンピック会議出席後・横浜到着の2日前)

嘉納治五郎について。

嘉納治五郎とは日本の勝海舟や坂本龍馬など偉人とされる方々と肩を並べる偉業を成し遂げた先人。武道・柔道家でもあるが日本の教育にも生涯力を注ぎ込んでいたことは当時として多いに知られる存在であった。それは大日本体育協会の設立、明治15年(1882年)1月から学習院教頭、東京高等師範学校(現筑波大学)校長、旧制第五高等中学校(現熊本大学)校長などを務め(部下の教授に、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)等がいた)、旧制灘中学校の設立にも関わりなど教育者としても尽力する。1909年には日本人初の国際オリンピック委員会委員就任し日本へのオリンピック招致運動など行う。昭和11年平和の祭典東京オリンピック招致に成功を遂げるが戦争の為オリンピックは返還されている。昭和13年(1938年)のIOC会議からの帰国途上5月4日(横浜到着の2日前)、氷川丸の船内で肺炎により死去するが最期までオリンピックへの情熱は強かった。嘉納治五郎が創設した柔道であるが人の「道」として説いていることは当時の人ならずとも現代人も感銘を受ける人は多く、世界へ広がる世界柔道の発展は目覚しい。教育・オリンピック誘致・日本体育・近年武道への影響と日本とアジアの業績は近年、社会への貢献が称えられている。
 明治15年 永昌寺(現・東京都台東区東上野5丁目1番2号)に12畳の柔道場と6畳の書院(講道館)を設立し柔道がはじまる。正式名称を「日本伝講道館柔道」である。

固め技中心の天神真揚流柔術、続いて投げ技中心の起倒流柔術を修めた。師範は柔術各派の技を再編整理して弱冠21歳講道館柔道を設立する。
万延元年10月28日(1860年12月9日)、摂津国御影村(現兵庫県神戸市東灘区御影町)で父嘉納治朗作(希芝)と母定子の三男として生まれる。嘉納家は御影に於いて屈指の名家であった。
明治6年(1873年)、13歳のときに明治政府に招聘された父に付いて上京した。東京にて書道・英語などを学んだ。
明治7年(1874年)、14歳のときに育英義塾に入塾。その後、官立東京開成学校(のちの東大)に進学。
明治10年(1877年)に東京帝国大学(現 東京大学)に入学した。しかし育英義塾・開成学校時代から自身の虚弱な体質から強力の者に負けていたことを悔しく思い、非力な者でも強力なものに勝てるという柔術を学びたいと考えていたが、親の反対により許されなかったなど非力の体格をコンプレックスとも思われるものも数々の偉業の原動力の一つとなったといわれている。このような人間的なエピソードも隠され現代でも人気がある。
昭和13年5月4日1938年になくなった当時、阪神大水害が起きており、アメリカでオーソン・ウェルズ演出のSFドラマ「火星人来襲」が放送され、演出として「火星人が攻めてきた」という臨時ニュースを流したところ、本物のニュースと勘違いされ、アメリカ中で120万人以上が大パニックになった年でした。

フランスと嘉納治五郎 

柔道が初めてヨーロッパの初であるフランスで紹介されたのは、1890年(明治23年)でした。当時マルセイユにて嘉納治五郎師範(当時30歳)がデモンストレーションを行っています。柔道設立当時 明治15年より8年後には、既に世界へ見据えて活動をしているのがわかります。

フランス 2008年第9回ジャパンエキスポ JAPAN EXPO → 詳細はこちら
柔道畳復元展示チラシ→  French (クリックして下さい。)
 
フランス国 ニュースダイジェスト 新聞社 オリンピック2大会の柔道の制したフランスの英雄とまで言われたタタミベットドゥイエ氏のインタビュー柔道畳復元について回答!。ニュースダイジェストはJAPAN EXPOに展示ブースを設けます。

ロシアと嘉納治五郎
1891年(明治24年)1月欧米視察の帰船において大柄なロシア人(士官・軍人)に囲まれいとも簡単に投げ飛ばしたという話がありますが、ウラジーミル・プーチン氏のご自宅のお庭には嘉納治五郎師範の銅像が立てられており、毎朝お参りをしていると報道があった。wiki

アイドルグループの柔道ドラマ

2007年テレビ東京で放送された柔道ドラマ「姿三四郎」に主演した男性アイドルグループ・NEWSのメンバー加藤成亮(20才)が千葉・松戸市にある嘉納治五郎の墓参りをしたという。

嘉納師範のお墓

お墓は千葉県松戸市田中新田生松にある東京都立八柱霊園(とうきょうとりつ やはしら れいえん)最寄の駅はJR武蔵野線新八柱駅と新京成線八柱駅よりそれぞれ15分から20分のところにある。彼岸の時などにはバスが大変混雑するほか、正面の参道には露店が多数出店される。その他、詩人の地西条八十、演歌歌手 松山恵子などの著名人のお墓地もある。


西郷四郎氏は「姿三四郎モデルのといわれている」 三船久蔵十段とは

ちなみに、永昌寺柔道創設時代より9人の弟子の一人であった西郷四郎氏は「姿三四郎」のモデルだといわれています。療養のため尾道に滞在し、1922(大正11)年に53歳でお亡くなりになりました。現)講道館には講道館柔道資料館・図書館あり、嘉納治五郎師範が愛用した胴着が師範室に展示されている。また、姿三四郎のモデルになったとされる西郷四郎氏の胴着も弟子としては唯一展示されているが、何故、展示に至ったのか?展示する経緯が現関係者も謎とされている。
1886年(明治19年)の警視庁武術大会で講道館柔道が柔術諸派に勝ったことにより、講道館柔道が警察の正課科目として採用されている。この大会の試合で西郷四郎氏は勝ち、現在の柔道の発展の起点の立役者の一人となった。

1889年 (明治22年)、西郷四郎は、嘉納治五郎が文部省から海外視察に派遣された際には、業績が認められ講道館の師範代を勤める。1890年 (明治23年)、富田常次郎、山下義韶、横山作次郎と並んで講道館四天王の一人になります。

「姿三四郎」は富田常雄原作の小説。映画 黒澤明 監督初作品の 「姿三四郎」は大当たりして、その後「続 姿三四郎」が封切られている。その姿三四郎の道場名である紘道館は講道館とは一字違いなど、嘉納治五郎氏の精神性などを主として描いていることから嘉納治五郎がモデルともいわれている。姿三四郎が飛び込んだという池は、現実にも永昌寺の東門前に池があったというが、今は清洲橋通りが走っている。

嘉納治五郎師範 名言

名言  「人に勝つより、自分に勝て。」

     「人生には何よりも「なに、くそ」という精神が必要だ。」

   「時間を最も有効に利用した者に、最も立派な仕事ができる。」


嘉納治五郎師範 教え(思想)

     「精力善用」「自他共栄」

柔道 基本理念 (柔道 嘉納治五郎)

柔道は「精力善用」「自他共栄」を基本理念とし、「柔能く剛を制し、剛能く柔を断つ」を真髄として、単なる勝利至上主義ではなく、精神鍛錬を目的としている。

「精力善用」とは、柔術の「柔よく剛を制す」の柔の理から「心身の力を最も有効に使用する」原理へと発展させた理論を打ち立て、社会生活すべてに於ても、欠くことのできない重要な原理である。

そしてこの原理を実生活に生かすことによって、人間と社会の進歩と発展に貢献すること、すなわち「自他共栄」をその修行目的としなければならないと説いています。

柔術と柔道では「術」ではなくこの原理と目的により自己完成をめざす「道」で表し、術から道へと名をあらためてその道を講ずるところという意味で名づけられている「講道館」である。

故嘉納治五郎師範 遺訓 
こちらへクリック。遺訓のページに繋がります。

嘉納治五郎杯

1978年より2008年までに14回(うち「嘉納治五郎杯国際柔道選手権大会」が12回)行われている。嘉納治五郎師範が亡くなられて80年目の年2008年も「嘉納治五郎杯東京国際柔道大会」が開かれるが、2009年から国際柔道連盟(IJF)の主催となり名称が変更されることになった。新名称は「グランドスラム東京」となる。
嘉納治五郎 - Wikipedia

嘉納治五郎師範と柔道畳の存在


嘉納治五郎師範は今のビニール畳マットに変わる以前に職人によって手作りで作られていた柔道畳を研究に次ぐ研究を行っていたことが近年、資料から見つかった。現在では忘れられた柔道の極意に迫る伝統柔道畳の復元作業を2008年北京オリンピックまでに行っている。ビニール畳は嘉納治五郎師範が亡くなった後に導入されているが、東京オリンピックはビニール畳マットではなく、あえて自然素材を使った柔道畳を導入していた。

講道館 嘉納治五郎師範の銅像 写真

現)講道館にて撮影 

日本郵船氷川丸
2008年リニューアルしました氷川丸日本郵船氷川丸と新たに日本郵船資料館として生まれ変わりました。今なお、その姿を見ることが見れます。デートスポット横浜山下公園にあり、以前の食事や結婚式の二次会やパーティーなどなくなりましたが綺麗な内装を復元されています。若い世代からお年寄りまで人気のある場所です。嘉納治五郎ファンにも行って見たい場所といわれている。また、チャップリンや皇族など、高名なゲストを乗せて世界を航行していた。 日本郵船氷川丸と日本郵船資料館は別の建物です。
割引情報日本郵船歴史博物館と日本郵船氷川丸の両施設セット券にて1000円のところ半額の500円
で入場できる。また、日本郵船歴史博物館の半券持参でも日本郵船氷川丸が無料になります。
(2010年5月9日更新時の入場料案内)

 シアトル航路向けの1万2千総トン貨客船3隻の1番船が氷川丸です。シアトル航路は荒天で有名な航路であった為、とにかく丈夫な造りで、この丈夫さが3度の触雷にも耐え、70年近く経ったも残っています。

アクセス ○みなとみらい線『元町・中華街』下車 氷川丸まで約3分
      ○JR根岸線『石川町or関内』下車 徒歩10分 車の場合は山下公園に有料駐車場があります。
      ○横浜駅隣接するデパート横浜そごうより発着するシーバスに乗ると氷川丸の隣に船が到着でき便利です。
営業時間○氷川丸は9:30〜17:00
休業   ○月曜日※祝日の場合は開館、翌日休館
サイト   ○http://www.nyk.com/rekishi/

民間船としては数少ない模型化された船である。長谷川製作所1/700ウォーターライン・シリーズ現役貨客船時代と徴用病院船時代のプラモデルが発売されている。
嘉納治五郎師範 動画 YOU TUBE 古式の形 取り[嘉納治五郎] 受け[山下義韶]


現在のビニール製マットではなく柔道畳が映っています。

  2009年柔道畳復元プロジェクトは非営利全国組織の団体へなりました。最新情報 サイトはこちら。入口
今はなくなってしまった嘉納治五郎師範が研究に継ぐ研究を行っていた伝統柔道畳を復元しています。
農耕民族、日本民族のお米作りからおお麻糸作りなど取り組む「神聖な柔道畳」


幻の柔道畳」の存在 2008年5月28日現在
1882年明治15年 永昌寺(現・東京都台東区東上野5丁目1番2号)にて12畳の柔道場の当時の畳は、柔道の投げ技や寝技など行う際に、直ぐに破れてしまい柔道に適していませんでした。そこで、以前より当時の講道館の斜向いのあった天皇家、皇族専属の畳屋があり、その畳職人内野氏に嘉納治五郎師範は「畳を何とかして欲しい」と頼み込み柔道畳へ取り組んで行きました。当時、一般の畳は作ることをしていない内野畳職人は、嘉納治五郎師範より熱意や柔道の理論に耳を傾け、次第に講道館専属の畳職人になっていきました。柔道畳の開発は1200年以上の畳の歴史のタブーを破る製法を施すなど嘉納治五郎師範と共に研究に継ぐ研究を行い、嘉納師範の「理想の柔道を最大限引き出す為の柔道畳」が作られていきました。現に言われる「幻の柔道畳」が明治19年講道館富士見町時代までには完成していったと見られています。柔道の祖嘉納治五郎師範の理論と理想の柔道畳の開発によって様々な技の開発や礼儀作法と心身鍛錬が行われていきました。嘉納治五郎師範と内野職人によって理想の柔道の為に開発された柔道畳の名称は一般的な柔道畳とは一線を引き日本伝講道館柔道内野式柔道畳に当たると見られている。
この度の柔道畳復元プロジェクトは素材の復元でも7年掛けて復元し柔道界にとっても最初で最後の試みになるが、現段階で世界の柔道界でも知られていないことからも柔道畳復元によって柔道振興の一環として取り組んでいます。また、講道館でも柔道畳、及び、日本伝講道館柔道柔道畳は残っておらず、柔道家にも完成が待たれる声も上がっています。

「復元された柔道畳はどうなるの?」
現在、講道館の資料室等での資料提供など様々な御協力を受けていりますが、復元する柔道畳や再現する日本伝講道館柔道内野式柔道畳ついての行き先について検討しております。現在、フランス国への寄与について検討させていただいております。フランス柔道家のインタビュー柔道畳復元について回答と要望!

全国へ広がる柔道と畳、そしてビニールマットへ
柔道も盛んになり各地で柔道場も広がる上で柔道畳の需要も高くなってきた時代があります。天皇家、皇族専属の畳職人だった内野畳店も講道館専属内野畳店になり数十名の職人を抱えて発展して行きました。その後弟子も増えて、その中にある柔道畳を熟知していない若い畳職人がおり、この職人が引き抜かれて全国へ未熟な柔道畳の技が各地へ広がっていきました。その未熟な柔道畳職人は柔道の神髄をしることも無いために徐々に柔道畳は重く、硬くなっていきました。その他にも不都合も多く柔道を練習する柔道家の怪我人や問題も広がっていったと見られています。そのことによっても現在のビニールマットへ移行していった一つの要因であることがわかりました。そのことで畳表(ござ)の生産地は激減し現在(2008年)は日本に数千あった農家も11件の農家しか残らないほどに減少し、嘉納治五郎師範の「幻の柔道畳」の製法を施した柔道畳と日本伝統であるカヤツリグサ科七島イという丈夫で香り豊かな畳表(ござ)はあと数年で全滅していくことになったことが決定された。この畳がなくなると同時に嘉納治五郎師範の理想の柔道の思いの一遍がなくなわれていく可能性が色濃くなってきたことから伝統柔道畳復元プロジェクトでは復元を完成したいと思っております。

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嘉納治五郎師範 柔道創設時代 伝統柔道畳復元にもどる